「入れ子構造」に思いをはせて──『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』
この記事は、東京大学ゲーム研究会アドベントカレンダー2024、21日目の記事です。
はじめに
TGA23(現在学部2年)のばんちっちばんです。
気が付いたら今年度の編集長を務めていました。
そういうわけで12月の頭のほうは冬コミの記事を書いたりまとめたりで時間がなかなか取れなかったので個人的に待ちに待っていたアドベントカレンダー企画に全然顔を出せていなかったのですが、12月15日に冬コミ頒布用の会誌制作・印刷を終え、ようやく参戦、という運びになりました。
なぜ待ちに待っていたかというと、何を隠そう僕がこのサークルではじめて成果物を出したのが昨年のこのアドベントカレンダー企画だからです。
当時趣味で読んでいた本の内容がスプラトゥーンで起きることに応用できそうだなぁと思っていたところ「ゲームに関する単語が1語以上あればなんでもOK」というもはや破るほうが難しい制限しかなかったアドベントカレンダー企画がたまたま始まってくれて、テキトーに記事を書いてみたらあっさり自分の成果物ができてしまいました。
今年度は編集長として偉そうにコミケの記事を書けや出せやと会員のみなさんに言って回っていたのですが、先ほどの発言からわかる通り、僕自身昨年の夏・冬コミともに記事を寄稿していませんし、なんなら五月祭や駒場祭のシフトにも全く従事していませんでした。
ただオンラインでたまに行われるスプラトゥーンやスマブラのメンバー募集時に参加していただけで傍から見たら図々しい立ち回りをしている人間でした。
じゃあなんで編集長になったかって?
それは、会議には出席していたからですかね。そこはえらいんですね笑。
というわけで(?)これまであまりサークルに関わって来なかったという人も今更と言わずにぜひ書いてください(ようやく堂々と「書いてください」と言えました)
さて、大学に入ってからゲームの大半を『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』を占めていて、かつスマブラの話題で無限に記事が書けそうな気がしてやまない今日このごろ、今回の記事ではスマブラからいったん離れて『Milk inside a bag of milk inside a bag of milk』について話します。
僕はセール時にSteamで176円で買ってプレイしました。ニンテンドースイッチ版もあったはずです。
(そういえば、「桜井政博のゲーム作るには」の最終回でも一瞬このゲームの画面が映っていましたね。)
本題に入る前に注意点を一つ。この記事を読むにあたって必要な情報はゲームのスクショやテキストの引用を通じてなるべく補っています。
なのでプレイしていない方にもある程度は読める内容になっているはずですが、一方その代償としてネタバレを多分に含んでいます。
このゲームは価格もかなり安いですし、数十分あれば一周は遊べますから、未プレイの方は全然途中で読むのをやめてもかまいません(←もちろん他の方もOK!)ので、気になったらぜひプレイしてみてください。(ただし、ゲームにエンタメを求めている方は購入をお勧めしません。)
それでは、ちょっと変わった「入れ子構造」の世界へ!
ちょっとした紹介・感想
まずSteamのゲーム紹介文を翻訳アプリにかけて出てきた日本語訳をご覧ください。
日常の些細なことがどのようなチャレンジになり得るかを描いた短編集。少女が牛乳を買うのを手伝い、彼女をがっかりさせない最初の人になろう。
このゲームは小さなビジュアル・ノベルで、面白い抽象的な言葉遊びか、痛々しい心理的エピソードを見せる。歴史が実際の出来事に基づいていると主張するのは具体的すぎるだろうから、抽象的な言葉遊びの集合であるかのように装う方が簡単だ。
まず第一に、これは言葉と形式を使った芸術的な操作であり、それから初めてゲームなのだ。
特徴
短い時間(10~15分)
ユニークなグラフィックスタイル
本格的なオーディオソリューション
はい。こんな感じのゲームです。
と言っても言葉のみからイメージを構成するのは難しいでしょう。
一通りプレイした身からすると、なるほど、となりますが、現時点でたいしてわからなくても全然問題ないです。
紹介文にある通り、このゲームの目的は単純かつ明瞭で、少女が牛乳を買いに行って、おうちに帰るまでを手助けしてあげることです。
いとも簡単にこなせてしまいそうな試練ですが、あなたがプレイヤーだったら本当に彼女に最後まで寄り添えますか?
どんなゲームか想像を膨らませるために英語版(オリジナル)と日本語版のそれぞれのスタートの画面を見てみましょう。
下の画像です。
(中学校程度の英語力と鋭い勘を持ち合わせる人はこの並置された二枚の画像に違和感を覚えるかもしれない。)
なんか、おかしいですね。
僕も最初そう思い、このゲームのプレイ後、その感想を抱いたことに非常に後ろめたさを感じました。
このゲームの主人公である少女はある時から赤色以外の色を認識できなくなり、ゲームの画面には終始その少女の視界が映し出されているとされています。
彼女の「変わった」知覚は視界の色に限らず、人が化け物に見えたり、お会計で二日間経ったように感じたり、はたまた入れ子になっている構造が好きだったり、と認識・時間感覚・趣味嗜好などもろもろの感覚において「普通」から逸脱しているのです。
これは彼女が患っている病気や処方している薬の副作用によるものだということがゲーム内で明かされますが、このゲームの中でそれが完治することはありません。
いわゆるハッピーエンド的なものは一切もたらされませんが、上で見たような「いつもと違った独特な雰囲気」がこのゲームを貫いているので、とあるゲーム紹介サイトでは「カルト的な人気を誇る」と題されているほど評判はよいものとなっております。
Steamの高評価レビューのほうには込み入った解釈・考察のほか
・わからないのが面白い
・なんか普通と違うから面白い
・「雰囲気ゲー」と俗に言われるやつ
というような感想が多く見られました。
一方でその独特な雰囲気・世界観がフィットしない人も当然いますから、低評価レビューも一定数存在しております。
理由としては
・短い
・無料でいい(無料で数時間もあそべる似た雰囲気のゲーム『ゆめにっき』と比較)
・「懐かしい感じのフリーホラゲ風」
・応答バリエーションが少ない
・「結構出つくされているアイディア」
・支離滅裂、わからない
・ギミック、物語的展開がない、驚きがない
・思考がまとまらない
などです。
僕はもちろん買ってよかったと思っています。記事の題材にしているくらいですからね。
ただ個人的に「わからないもの」を放置しておくという姿勢はあまり好きではないです。だからといって必ずしも「わからないもの」がわかるようになるとも限りません。
ですが、「わからないもの」に対して放置するのでもなく、またわかるようになるのでもない関わり方はあると思います。そろそろ本題に入りますが、以下の実践はそういう類の関わり方一つとして行うという意味も含んでいます。
「普通」を疑いましょうね、とか、「変わった」ことを体験するのは楽しいね、とかいう平易な教訓もしくはひねりのない感想を示して終わることもできますが、今回はちょっと踏み込んで考えてみますよ!
「入れ子構造」を見てみよう!
下の画像はゲームの中盤、少女がお店に入って牛乳を陳列棚から取るシーン。
「入れ子構造になってる文が好き」な彼女はこんなことを発言します。
僕は最初、この彼女の発言の文構造を理解するのにかなり時間がかかりました。
どうでしょうか。構造、わかりますかね。理解力のある方には冗長に思われるかもしれませんが、解説いたします。
彼女は
牛乳
を取りました。
そこでさらに、彼女は取った牛乳がどんな牛乳であるかを補足説明してくれます。
その牛乳は
袋の中の 牛乳
であるとのことです。
彼女は優しいのでその袋がどんな袋であるかをさらに補足説明してくれます。
その袋は
牛乳が中に入った 袋
であるとのことです。
最後の補足説明を追加することで問題が起きます。一つ上だけを見ると一見わかりづらいかもしれませんが、一番上からここまでをくっつけてみましょう。
できあがった彼女の説明はこうなります。
「牛乳」が中に入った 袋 の中の「牛乳」
おわかりいただけましたか?
「牛乳」を説明するにあたって本来説明の対象であった「牛乳」自身を用いて説明してしまっているのです。
この点はわかってほしいので具体例を用いてさらに説明すると
例えば、リンゴ、という単語を説明するのに、
「リンゴとはリンゴでないもの以外のものである」
と言うのと似たようなことをしているのです(少女の間違いには袋がはさまっている分若干違うので余計にややこしくなってしまっていたらすみません)。
理解していただけましたか?
これ以上丁寧な説明はできないので先に進みます。
「入れ子構造」の形をとった少女のこの発言から少し奇妙なことが浮かび上がってきます。それはこのゲームの中心的なテーマの一つであろう、「入れ子構造」に関する重要な問題です。
入れ子構造の好例と言えば、「マトリョーシカ」でしょう。人形の中に人形が入っていて、その人形の中に人形が入っている玩具です。
5体人形が入っていれば5重の構造を持っていると言えます。
それでは少女の発言を見てください。
牛乳が中に入った袋の中の牛乳が中に入った袋の中の牛乳……
確かに、文章的には「入れ子構造」に見えます。しかしながら、実際は一つのゲシュタルト(ひとまとまり)の牛乳と一枚の袋を行ったり来たりしているだけでそれらの外部へは開かれていない閉じた構造を持っています。
つまり、言ってしまえばその構造はたった1重(?)でしかなく、一種の無限ループと化してしまっているわけです。
(「いや、牛乳や袋の粒子一つひとつが違う牛乳・違う袋と考えられるから~~」というのはやめてください。泣きます。)
彼女の生み出した構造は果たして「入れ子構造」なのでしょうか。いや、違います。
おそらく、最初に彼女の発言を理解するのに時間かかった理由はそこの違いにあると思います。というのも、実際に違う袋や牛乳が外にある状況を仮定すると、少なくとも僕はすんなり文意を理解できるからです。
というわけでひとまずこの記事では、彼女の言う「入れ子構造」をカギかっこを付して表記することでマトリョーシカ的な本来の意味の入れ子構造と区別します。
ここまで彼女の発言に表れていた「入れ子構造」について少々分析しました。
さあ次は、彼女の発言から間接的に導き出せる無限ループ的な「入れ子構造」を探っていきます。
浮かび上がってくるもう一つの「入れ子構造」
僕が見出したこのゲームのもう一つの「入れ子構造」を見る前に、その簡単な準備としていったん「視点」のお話をします。
決して難しくない話なのですがゲームをプレイしていないと状況がつかめないので、ささっと話しておく感じです。
下の画像を見てください。
「地の文」がありますね。
画面の下の部分に出てくる地の文は一貫して主人公の内面の視点から語られています。
つまり、地の文には彼女が物事をどう見ているか、どう感じているかといった彼女の主観が反映されています。
以後、こういう状況を、〈少女〉もしくは〈彼女〉が語っている、と表現しましょう。
「うわ変な記号出てきた!難しい!」
と思わないでください。ただ視点を含意させるための記号ですので、〈〉で括られていたら後ろに“の視点”をつけて考えていただければさしあたって大丈夫でしょうし、そんなに厳密にならなくても問題ないかもしれません。
一方で〈プレイヤー〉のセリフの選択肢は、下の画像のように画面の中央部に出てきます。
そして、物理的な世界に住む〈私〉は〈少女〉と〈プレイヤー〉との対立のうち、〈プレイヤー〉に同一化(感情移入)を果たし、その語りを通じて少女と交流するのです。
さて、先にしておかなければならない視点の話は済みました。
それではこれから本題のもう一つの「入れ子構造」を暴いてみましょう!
ゲームの終盤といったところでしょうか、少女が自分の病気のことや過去にあった出来事を話してくれてなんとか理解できそうだとなりつつあった最中、彼女は〈私〉にとって衝撃的な発言をします。
!?!?
〈プレイヤー〉=「君」は少女自身が作ったものである、という趣旨の発言です。
僕はこの発言を聞いた瞬間に、再度プレイしなければならないことを悟りました。
これは、〈プレイヤー〉がそもそも彼女の想像上の人格(イマジナリーフレンド)であることを示しているのに加え、今まで画面の中央に表示されていた〈プレイヤー〉の発言の選択肢は彼女自身が考えたものであることをも意味します。
僕は〈プレイヤー〉の発言の選択肢をもちろん〈プレイヤー〉の独立した人格からの発言だと思っていましたから、これらすべてが少女自身が考えた選択肢だったとすると「その想定で一からやり直さねば」となったのでした。
(余談)
ちなみに冒頭のほうに2つの画像を並べたかと思いますが、
英語の字幕は“HELP ME BUY MILK”と書いてあります。助けてもらうのは彼女だからこの語り手は〈少女〉で確定です。
一方日本語の字幕「牛乳を買いに行こう」は
〈少女〉の語り(この場合「う」は「意志」の用法)とも
〈プレイヤー〉の語り(この場合「う」は「勧誘」の用法)とも
どちらにもとれる内容になっています。
素晴らしい訳ですね。
もしこの2つを上で並べた時点で「これは〈プレイヤー〉と〈少女〉の区別があいまいなのでは?」と勘づいた読者の方はいらっしゃいますか?感づいた方がいれば崇めたてまつります。
僕はこの記事に使う画像を集めている途中にようやく気付きました。
(余談終了)
彼女の衝撃発言の後でこのゲームへの接し方を180°変えるとちょっと違和感のある構図が浮かび上がってきます。ここからちょっと難しくなるので、だいぶ雑ですが自分のほうで図に還元してみました。
一見これまで〈少女〉と〈プレイヤー〉がやりとりをしている二元的な構造のようでありましたが、〈プレイヤー〉からの矢印は実際のところ、〈少女〉から出たものであったということが明らかになりました。すなわち、〈少女〉の秩序が〈プレイヤー〉の秩序をのみこんでしまったわけです。これにて構造は一元的な性質(矢印が出てくる源が一つだけである状態;二元的は源が二つ、多元的は源が複数個ある状態)を帯びます。
本来、〈プレイヤー〉というのは〈少女〉から独立した人格であるはずでした。
その場合〈プレイヤー〉は独自の視点を持っており、〈少女〉からある程度影響を受けることはありますが、完全に規定されたり従属したりすることはありえません。
これは実生活の人間関係にも同じことが言えます。
他人は自分の思い通りに動いてくれることもありますが、当然ながら意のままにならないこともあります。というかその場合のほうが多いですよね。
それはなぜかというと他人は自分と「絶対的に違っている」からです。
自分が何をしようとどうあがこうとも、他人は自分を超越しており、決して自分からの規定の枠に収まることはありません(レヴィナスの他者論を思い出しましたが、これを書いている現在参照できるものがありませんので勢いのままに行きます)。
しかしどうでしょう、このゲームで生起していた関係性というのは。
今や、〈少女〉は〈プレイヤー〉をのみこみ〈プレイヤー〉全体を包含したため、〈プレイヤー〉はもはや〈彼女〉から超越した存在ではなく、「絶対的他者」の地位から退いてしまっています。
そしてここには先ほど「牛乳」と「袋」で確認された無限ループ的な「入れ子構造」が今度は〈少女〉と〈プレイヤー〉の間で成立してしまっているのです。
〈少女〉は今誰であるか、〈彼女〉はこのように言います。
ノベルゲームのキャラクターである、と。
さて、それではどんなキャラクターなのでしょうか?
先ほど「牛乳」は、「牛乳」と密接に関わっていた「袋」をもって説明されました。今回も同様に最も密接に関わっているもので説明してみましょう。このゲームの物語世界では〈プレイヤー〉が最も身近ですね。
〈彼女〉は
〈プレイヤー〉がしているゲームの中のキャラクター
です。
ところで、〈プレイヤー〉って誰でしたっけ。
〈プレイヤー〉は
〈彼女〉の頭の中の人格
でした。
つなげると、
〈少女〉の頭の中の〈プレイヤー〉がしているゲームの中の〈少女〉の頭の中の〈プレイヤー〉がしているゲームの中の〈少女〉……
「入れ子構造」が発生しました。
〈少女〉と〈プレイヤー〉が二元的である限りこの構造は「牛乳」と「袋」の構造とほぼ同じで、無限ループさせたとしても「行ったり来たりしているね」で済みます。
しかし、今回は違います。
〈プレイヤー〉が〈少女〉の想像上のものであるという一元的な関係性によって悲劇的な様相を帯びるのです。〈彼女〉の自己規定は「絶対的に他なるもの」の存在によるものではなく、〈彼女〉自身のやり方でもってなされています。これが非常にまずいです。
『〈わたし〉は「〈わたし〉の生み出したもの」じゃない、』
と言っているのと同じなのです。
〈わたし〉を支えるものは〈わたし〉であり、その〈わたし〉を支えるものは、、、と無限ループに終止符を打つことはできなくなってしまっています(「行ったり行ったり」なのか「来たり来たり」なのかはわからないです笑)
つまり、いったん〈少女〉の自己像が崩れると〈少女〉はそこから自身のよりどころを失い、規定不能に陥ります。これでは自我を安定的に保つことはできず、より一層深い悲しみを誘う構造が間接的に導かれるのでした。
とまあ、ここらへんがテクストをもとに分析できる構造の限界だと思います。
分析したことをまとめると、
・少女の言う「入れ子構造」は実際には同一のもので行ったり来たりしているだけであること
・〈少女〉の自己規定は一元的で無限に続いてしまう規定であり、〈彼女〉の自己が安定しないということ
になります。
※なお、英語の原文だと日本語で「入れ子」と訳出されているところは“pyramidal”となっており、Webで使える英英辞書OEDで引いてみたところ「ピラミッド型の」「円錐型の」などと訳出するらしく、「入れ子」と訳せるような例文は一切のっていませんでした。
今回は日本語訳に従って入れ子構造について分析しましたが、原文に忠実に分析してみたらまた面白い結果が出てくるかもしれません。
気が向いたらやりますが、現状まったく思いつかないので誰かにやってほしいですね。
あと、翻訳者さんのnote記事があったらしいのですが、現在はなくなっていました。
もしこの部分に関する記述を記憶している人がいましたら教えてほしいです。
少女の変わった感覚を経験して
(ここから主観が多めになります。)
ところで、〈プレイヤー〉の発言として用意された選択肢は、早くお店に行ったら?などといった少女を助ける趣旨の発言か少女への協力を拒否する発言で、いずれの発言も彼女の理解しがたい発言とは打って変わって、はるかに容易に理解できるものとなっています。
〈プレイヤー〉は〈少女〉自身から生まれ出ていますから、とりもなおさず彼女は僕たちに理解できる文章を紡ぐことができるということが帰結します。
プレイ中、少女は「普通とは違った」感覚を持ち合わせているため、しばしば〈彼女〉と本当にコミュニケーションを取れているのか、彼女の発する「日本語」はそのまま日本語として捉えていいのか、彼女は終始「日本語もどき」を話しているのではないかと疑り深くなる時があります。
がしかし、彼女の想像上の人格が僕たちの感覚に合わせた発言をしてくれるという事実からその疑念はすぐに晴らされます。
そして、できる限り「普通の」感覚に合わせようとする誠意のこもった彼女の献身は本当に切なくあるのですが、この彼女の贈与的な行為によって僕たちは彼女と同じ地平を歩む可能性を見出すことができると僕は考えます。
僕たちは似た感覚を持つ人がいないと孤独になります。
ですが、残念なことに僕たちは他の人が世界をどのように見ているのかは決して知ることはできません。他の人たちが自分と似たような「世界」に生きていることを証明することは不可能なのです。
それでも僕たちは、きっと他の人も自分と同じように物事を体験しているであろうというかりそめの確信を前提に「空は青いね」と言ったり「楽しいね」と語りかけたりし、特にことばを通じて感覚・認識を共有しているような感覚を得ます。そして、「言語ゲーム」(ヴィトゲンシュタイン)が成立している限りにおいて僕たちは認識の類似性を疑うことをせず、結果的に「絶対的な他者」の絶えざる攻撃から身を守りつつ自我をも育むことになります。
その点において、彼女も僕たちと感覚を共有しています。他者なんていなくてもいいやとはなりません。
いやむしろ、彼女は誰よりも他者が欠乏していたがためにイマジナリーフレンドが生み出されてしまったのかもしれません。
少女の〈プレイヤー〉のことばの提示で見せた歩み寄りは、健気でこころもとない「類似的他者」への欲望のあらわれであったと言えるのではないでしょうか。
おわりに
ここまでお読みいただきありがとうございます。
アドベントカレンダーだから短い記事を想定して、書き始めたらどんどん字数が膨れ上がってこんなに長い文章ができてしまいました。
また時間もどんどん過ぎていって気づいたら日付を回って数時間も経っていました。最後のほう文章が適当になってすみません。
誰か対策を教えてください。
早く寝たいので最後にこのゲームの続編といわれている、『Milk outside a bag of milk outside a bag of milk』をスーパー簡潔に紹介します。詳しくはリンク先を見に行ってください。
この間1周やりました。『inside』より時間がかかりました。
『inside』の場面のカラー版の映像がありました。
ゲームのアニメーション・演出が増えていました。
僕は買ってよかったです。
それでは。