はじめに
はじめまして、TGA23のばんちっちばんです。12日の記事を担当なさったせなおまるさんと同じく会員として文章を出すのは初めてで、また書く内容も、基本はスプラトゥーンシリーズのゲームに言及してお話しますが、ゲームの攻略だとか紹介だとかいうよりは少々抽象的なものを書こうと思っているので雰囲気も何かと似ているかもしれません。せなおまるさんのように読者がいかなるゲームの経験を持とうともどこかしらに何かが引っかかるような記事にできるかどうか不安ですが、僕なりに頑張って書くつもりなのでどうぞお楽しみください。
まずはじめに僕とスプラトゥーンの個人的な関わりの話から話を始めます。僕は小5の時に初代『スプラトゥーン』を発売日に学校を休んでまでして買いに行って遊んでから、『スプラトゥーン2』そして『スプラトゥーン3』とそのソフトを変えながらも現在までこのスプラトゥーンというゲームを楽しませていただいております。基本的にガチマッチ(3だとバンカラマッチですね)で遊ぶことが多く、気になる(?)ウデマエの方は初代はS+の後半あたりで一回だけS+99経験、2はルールにもよりますが平均してXパワー2250くらい、3はまだシーズン二つだけをほんの少ししか遊べていないのですがXパワー2250くらいかという感じです。まだまだ上を目指せる気がするのでこれからも引き続き分析と修練を積みたいと思うわけですが、いったい何が僕にこのゲームをプレイしたいと思わせるのでしょうか。皆さんもゲームは違えどふとこのような疑問を抱く瞬間があろうかと思います。では次にこの謎の原動力に感覚的に迫ってみます(ここからしばらく主観多め…)。
個人的には、先ほどの向上心はスプラトゥーンの試合形式、すなわち<マルチプレイヤー>、<対戦>、<アクション>の3つの要素をあわせもつ試合形式がもたらすそもそもの楽しさ、というとてつもなく大きな原動力が背後にあってこそのものだとなんとなく感じております。<ゲームデザイン>や<ゲーム内イベント>など他の大事な要素がスプラトゥーンの特異性を際立たせている事は十分承知しておりますが、話をある程度一般化するためにとりあえずこの漠然とした感覚を出発点として僕はスプラトゥーン、ひいてはそういったゲームをプレイする原初の楽しみとは一体何であるのかを考えます。
僕、またおそらく他の一定数の方々の場合、心地よさを感じる核となるのはガチマッチで遊んでいる時、もしくはそれを想起する時に訪れます。しかしそれは決して試合が勝利に終わったか否かに依存するわけではなく、総じて(半ば強引に聞こえるでしょうが)、試合中の感覚・知覚をもとに個人及びチームとして勝つための「自然な」選択をしている、ということにある程度帰着すると考えています。例えば個人のレベルでは、適切なタイミングでスペシャルウェポンを発動したり、センプク後に、”今だ”、と直観的確信をもってキルを取りにいこうと動き出したりする瞬間などはゾクゾクした気持ちが込みあがってきますよね。さらに集団のレベルでは、やられそうになっているときにタイミングよく味方が加勢してくれるとか、互いに「自然と」発された自分と味方の戦術がうまくかみあって相乗効果を生む時とか、チームが1つの有機体のように働き、個々人が渾然一体となる試合はスプラトゥーンの理想的な境地と言えましょう。なので仮に僅差で負けてしまったとしても、やれることはやった感のある後味の良い試合経験として刻まれることになります。また逆に、自分の圧倒的な活躍で収めた勝利には達成感がありながらも同時にいくらかの寂しさがあるのは、個人のレベルでの「自然さ」を尽くしながらもチームのレベルでの「自然さ」が存在しないからと説明できます。
<マルチプレイヤー>の要素が欠ければチームのレベルでの「自然さ」を想定しづらいですし、<アクション>の要素がない<ターン制>のゲームで、ノエシス(後で説明されます)の働きを感じることはなかなか難しいのは十分承知しております。しかし、みなさんがプレイするゲームにおいても「自然さ」の中で快を得ていると表現できる瞬間はありませんか?僕は個人およびチームのレベルでの「自然さ」をぼんやりと心地よいなと思っていたところ、この度『あいだ』(木村敏著、筑摩書房)を読んでその感覚が「個別的な意識の主体性を止揚した集合的・間主体的で自律的なノエシス・ノエマ相関」(p.54)の中で成立しているということが明晰に把握された挙句、その時=スプラトゥーンをプレイしている時に僕に「主体性」と「自己」が成立していることが論証されてしまいました。ここからはその論理の過程を簡単に紹介させていただきます。それでは、「あいだ」の世界へ。
『あいだ』(木村敏著)との邂逅_________
本書の理論は、生きるものは全て「生命一般の根拠」なるものとのつながりを維持しているのだ(p.12)という措定を出発点とし、特に人間がそれと関わる時に成立している状況を解説しています。言い換えると人間が生きていると言える状態を描き出してくれているわけですが、僕はスプラトゥーンをプレイしている時にこの理論で想定されている状況が概ね当てはまっているなという認識に至り、とりもなおさず僕は生きているんだと確信に近いものを得たのでした。先ほどの引用したものがその状況を端的に表していた箇所でして、そこでは外部性と内部性を属性として持つ「あいだ」(一見すると矛盾しているように見えるため著者は「虚の空間」とも表している)が発生していると言います。そして実はその「あいだ」こそが主体自己を成立させる要因なのです。とまあいろいろ用語をこねくり回しても仕方ないので、この本の中で先に見たような主体自己が成立している場面として例示されている、人間が生きているということに根差した活動であるとする(この特徴が)「音楽演奏の行為」を概略的に見てみましょう。先ほどの説明で主体自己の発生過程を理解した方には退屈でしょうが、スプラトゥーンの場合に当てはめる前に「ノエマ・ノエシス相関」や「間主体的なメタノエシス的原理」が実際どのように現れるのか雰囲気をつかんでみてください。
著者は音楽の演奏に際して3つの契機が必要だと述べます(pp.29-35)。1つ目に、瞬間瞬間の現在で音を生成する行為。2つ目に、自分の生成した音を聞いて表象する意識的な側面。3つ目に、これから生成する音を休止も含めて先取りして現在の音楽に未来の方向性を与えること。音を作り出し、その音を聞きながら音の間隙も考慮に入れて次にどんな音を出そうか決定する一連の音楽行為の3側面ですね。そのうえで、第1の契機こそが生物としての人間の活動である音楽という行為の背後にある、「もっとも原始的で根源的な形での生命の迸り」(p.31)を直接に実現していると続けます。例として挙げられていた酩酊状態での音楽行為は確かに第2、3の契機は弱まっている一方、第1の契機は強く表れているなと僕も納得しました。
いま確認した第1の契機のような、主体の一瞬一瞬の行為的側面のことを「ノエシス」と呼び、第2の契機に色濃く表れるような、ノエシスの運動を束にして全体的なまとまりとして(空間的に)認識する意識の働きのことを「ノエマ」と表します。僕は自分で読む際に、ノエシスは一階時間微分(d/dt)的なやつであって、瞬間、運動、と思いながら、またノエマは知覚の束、意識、表象とか思いながら読み進めておりました。
さらにこれらノエシス的作用とノエマ的作用の2つは独立に存在せず、一元的であると言います。切っても切れない関係ということでしょう。というのも、瞬間瞬間に聞こえてくるままの音を経験したことがありますか?もしくは想像できますか?われわれは既に生成された音楽か、未来に予期された音楽といったノエマ的表象しか意識できないのです。しかし、一瞬一瞬の音を知覚できなくてもそれらの音が存在しない限り音楽が成立しないようにノエマ的表象はノエシス的な作用を前提としており、このような表裏一体のノエシス・ノエマの相関関係をドイツのヴァイツゼッカーの言葉を引いて「ゲシュタルトクライス」と説明しています。そしてゲシュタルトクライスにおいて、世界との出会いの原理としての「主体」(ヴァイツゼッカーは「主体」の一側面を世界との出会いの原理ととらえています(p.22)。世界と関わっているところに主体が成立、生成するということです。なので世界との関わりをやめると主体は消滅することになります。)が二重に成立していて、一方では自己の「内部」でノエシス的に生命の根拠一般と出会う主体であり、またもう一方ではノエマ的に自己の「外部」で音楽世界と出会う主体であると書きます(p.34)。
ところで二段落前のところでは、無言で第3の契機を飛ばしたのですが、ノエシス・ノエマの導入が済んだ今改めて説明いたします。振り返りますと、第3の契機とは、聞こえてくる音楽や音と音の間隙から次の音を創造するという未来を産出する行為のことでした。しかし、音やその間隙を考えてそれに続く音を作り出すといっても何を基準に考えるのでしょうか、疑問が湧く人もいるでしょう。実はこの決定の根源となっていたのが「生命一般の根拠」なのだと著者は述べます(p.106)。われわれは生きものである人間として、既に生み出された音楽のあとにどのような音楽が続くのが心地よく、また「自然で」あるかを感じ取ってそれに従って音を出すと。ここで勘違いしてはいけないのは、生命一般の根拠=自分の行動、という等式が成り立っているわけではありません。生命一般の根拠はあくまで根拠でありそれ以上でもそれ以下でもありません。世界と出会う主体の行を推進する力ではありますが、それは主体の唯一無二の「個別的身体」を通過して初めて個別性を獲得すると著者は書きます(pp.183-186)。生命一般の根拠はそれぞれ固有で絶対的な各自の「身体」に「自然な」関係を持たせ、一つの表現様態として身体の上でようやく顕現する。音楽の例で言えば、これまでの音の流れのイメージが次に作り出す「自然な」続きの音というのが絶対一意に定まるものではなく、各自にとって「自然な」音の運びが様々に生まれてくるのと一緒でしょう。典型的なコード進行にもパターンがあるのもその一例だと思います。反対に、身体を通じて主体的に関わりを継続しない限りこの根拠は対象化できない、未知性を本質としているものであるとも言えます。加えてこの時、生命一般の根拠は自然さノエシスの運動に方向性を与える「ノエシスのノエシス」として「メタノエシス」の立場にあると言います(pp.63-65)(僕は二階時間微分(d^2/dt^2)的なイメージを持ちながら読み進めていました)。このように、生命あるものとして与えられた今ここにある自分の身体を通じて未知の生命一般の根拠との実践的・行為的な関係を維持することで自己の単独性、つまり個性を獲得しているのです。
さて僕の稚拙な文章で伝わっていますでしょうか。もうあと一歩です。ここまで見た論理は個人のレベルにおいても成り立つ関係性です。最後に集団、チームのレベルで現れる「間主体的なメタノエシス的原理」について説明します。これもまた本書の中(pp.36-45)ですぐ上の例の延長として挙げられる「合奏の構造」をなぞりながら具体的に確認してみるのがよいでしょう。
まず著者は合奏を大まかに3つの場合に分けます。第1段階として、各演奏者が各自のパートを楽譜通りに正確に演奏する時。第2段階として、優れたリーダーや指揮者のもとで合奏が行われる場合。第3段階として、リーダーや指揮者が存在しないにもかかわらず、各演奏者が一定の技術や芸術性に富んでいるため各自が自分勝手な演奏を行っても自然に合奏が成立するような理想的な場合。第1段階では音楽が自分のノエマ的演奏の「内部」のみで鳴っていて心理的には内部的な意識から抜け出すことはなく、逆に第2段階ではリーダー・指揮者=「外部」から音が鳴っているように聞こえると述べます。第3段階において音の鳴る場所がとても特殊で、このケースでの音のありかが本書の題名にもなっている、「あいだ」と説明されるものなのです。
この境地で鳴っている音楽は自分のパートの音楽のみならず、他のパートの演奏をすべて含めた全体の合奏でさえもノエシス的な「自然さ」でもって自己に帰属しているように体験される。しかしそれと同時にそしてこれまた自然に、音楽の生まれる場所が自分の外部である他の演奏者に移って自分もそこに溶け込むような感じがするということも想定できると。すなわちこの場面で音楽のありかは、自分の外部でありかつ内部であるような物理的にあり得ない「虚の空間」にあるとしか説明できません。そしてこの空間を演奏者どうしの「あいだ」と本書の著者は呼んでいます。「あいだ」においては個々の演奏者のノエシス的作用と、全体の演奏のノエシス的作用との方向性が溶け合っているように思えますよね。個々のノエシスが、音楽の生まれる場所にして虚の空間である「あいだ」の虚構的なノエシス面と渾然一体になって未来の自然な演奏を産出していく構造を「間主体的なメタノエシス的原理」と呼ぶのです。
上で、個人のレベルにおいてノエシスとノエマに「ゲシュタルトクライス」の関係があると示しましたが、個人のノエシス面が集団のノエシス面に止揚し「間主体的なメタノエシス的原理」として「あいだ」のノエシス面となったならば、それと個人のノエマ面との間に「ゲシュタルトクライス」が成り立っていると言い表すことが可能です。合奏の理想的境地では、「生命一般の根拠」を各々が共有し合っているために絶対的な他であるはずの他人の身体を通じて「自然と」出てきた音でさえも、あたかも自分の内部からのものであると思うくらい同一化してしまいます。個々人全員にとって自然なものとして経験されることで、あり得るはずのない間主体的なノエシス面が形成されるのです。ノエシス面とは主体の一瞬一瞬の行為的側面でした。虚のノエシス面における主体という原理は、各演奏者によって演奏者全員が一つになった有機体の主体性として仮想されることになります。これにて形成された主体の「外部」にある虚のノエシス面は、個のノエシス面に先行して各自のノエマ的意識に表象を送り出し、個々の主体内部のノエシスによる未知=未来の先取り行為の方向性を決定づける「間主体的なメタノエシス的原理」の姿をとると著者は書きます(pp.53-56)。また、個人のレベルでの「メタノエシス」作用でも見たように、全体としての一体感を感じながら共通の生命一般の根拠と関わるときも、身体を持つ限りにおいてその成員の主体は、個性を、そして他人の身体の絶対的他である自己の身体の唯一性から、自己をも手に入れている論じます(p.144、p.156)。
ちなみに「あいだ」が外部性と内部性を持つという不思議さについて「それ(「あいだ」:引用者注)が本来ノエシス的な現象であるのにノエマ的にしか意識されないという、その二重構造から来ている」(p.42)と解説していますが、これに説明を加えるのはやや話が脱線するので省略します。
スプラトゥーンへの回帰_________
『あいだ』の論理を大雑把に紹介したところで再度スプラトゥーンのガチマッチ等の試合について振り返ってみましょう。試合に一貫して働く共通の生命一般の根拠をあえて言語化するならばそれは、敗北(=その試合における「死」)を回避する衝動だと現時点では考えます。つまり勝利を目指し、勝利に関わろうとする根源的で「自然」な「ヴァーチャルな身体」の動きとも表現できましょう。ですがいつどのように敗北が訪れるかはわからないですし、裏を返せば、この先確実に勝利を獲得できるという保証はほとんどありません。その意味で勝利は未来的、不可知的、未知的であると言えるでしょう。そのため僕らプレイヤーはチームとして、勝利のための理想的な「自然さ」に自身のヴァーチャルな身体を通じて関係し続けるのです。
ところで、プレイヤーのデスが「死」に値するのではないかとお思いになる方もいるでしょう。がしかし僕はそれは違うと考えており、スプラトゥーンの場合はその説明がとても容易にできます。ギアパワーの<カムバック>や<復活ペナルティアップ>を思い出してください。あれらのギアパワーはプレイヤーのデスを前提としており、勝つための自然な流れとしてのデスが既に予測されていることが分かります。この点でプレイヤーのデスは決して完全に不可知的ではないので、対象として不可知であるという特徴を持つ生命一般の根拠とはなり得ないと結論付けることができます。また、ここにおける敗北は現実の死とかなり性格が異なっているため現実では起きえない現象が起こりえます。それが、最初のほうで確認した、負けてしまったのにもかかわらず爽快感や心地よさの余韻があとに残る試合が存在することです。本来、死が訪れた瞬間には余韻に浸るなどといった生ぬるいことはできるはずはありません。しかし、ゲームの世界では「死」後に実際このような感覚を抱く場合が確実にあると思いますので僕は敗北を回避しようとするこの根拠を、111ページで想定されている「社会的生存の根拠」にならって「仮想的生存一般の根拠」と勝手に名付けております。
余談はさておいて、プレイヤーとしての自然な身体の運動がそのままチームとしての勝利への自然な事の運びと重なり合う時に「間主体的なノエシス・ノエマ相関」が働いていると僕は考えます。僕たちは決して完全に把握しきることのない強い根拠との関わりを目指して、ヴァーチャルな身体がインクを塗り、ステージ中を移動し、センプクし、キルをとるよう現実の身体がコントローラーを操作する。これらの瞬間瞬間の行為的側面はノエシス的作用にあたり、一方で塗り状況や周囲の味方及び敵の位置、聞こえてくる音、また自分が触るコントローラーの振動などの視覚・聴覚・触覚を統合し一つの表象を与える意識がノエマ的側面と対応するでしょう。
さてここでもノエシス・ノエマは互いに「ゲシュタルトクライス」の関係にあると直観することができます。一瞬一瞬のプレイヤーの行動が周囲の塗り状況や、敵味方の状況に変化を与えるのは容易に理解できると思います。さらにその状況の変化に応じてプレイヤーはその行動を決定しますよね。塗るべきか、センプクするべきかいろいろな選択肢の中で勝利というゴールに向かうのに自分にとって最も自然な選択を行わせるのです。
そのうえ個人の中でのゲシュタルトクライス関係は、成員が共有する超個人的な生命一般の根拠を通じて集合的なものに止揚するのでした。そして個人にとって「自然だ」と思われた選択が、あらゆる人にとって自然な音の運びというのが多数考えられるように、他の味方にも自然な選択として浮かび上がり、その行動後に更新された塗り状況や、敵味方の生存状況などのノエマ的表象が個々人のノエシス面に回帰してヴァーチャルな身体がまた状態を更新し…という円環が成立するのです。結果チームは「勝利」という4人のメンバーによって共有された根拠のもとで自律性を獲得し、一つの有機体のように運動するに至ります。このようにしてガチマッチをプレイしているときに「間主体的なメタノエシス的原理」=「あいだ」が醸成されるのです。
とは言いつつも「あいだ」を発生させるためには基本操作や、イカロールとかチャージキープとかちょっとした技術から応用テクニック、射程やインク消費量がどのくらいかとかの知識などの基礎事項を事前に身につけておかなければなりません。これは楽譜通りに演奏をするための基本の習得と重なるところがあるでしょう。熟練しろと今ここで言うのはとても簡単ですが、行うは難しで、時間と労力がたくさんかかります。しかしながら、それらをある程度「自然に」実行できるような水準に達することで開かれるのがまさにあの「あいだ」の地平。そこで僕たちは絶えず敗北の危機に晒されながら、チームの成員と共通の「仮想的生命一般の根拠」と自己の内部で関わり続けんとするが故にヴァーチャルな身体を通じて自分固有のやり方で勝利のための「死を賭した跳躍」(p.145)を行う。それと同時に自分のヴァーチャルな身体の絶対的外部にあるはずの仲間たちも同様にそれぞれ固有のやり方で未来を切り開いてゆくが、それは絶対的他性を帯びながらあたかも自分から出たような自然さを感じさせる。そしてついに、この状況の持続において「私は生きている」という命題が真となるのです。僕は、スプラトゥーンをプレイする楽しさの正体は、チームとして未知=仮想的生存の根拠と関わり続けようとする生き物としての原始的な衝動だと思っております。最後にもう一度この本の中で一番印象的な箇所を引用して本文を終えたいと思います。
―「個別的な意識の主体性を止揚した集合的・間主体的で自律的なノエシス・ノエマ相関」(p.54)
終わりに_________
ここまでお読みいただきありがとうございます。いかがでしたか?雑に書くつもりで、ちゃんと雑に書いたのですが想像の何倍も長くなってしまいました(しかも文章が未熟で本当に申し訳ないです。本当はもっと色々考えられることがあるのでいずれどこかの会誌でもう一回ちゃんと書きたいですね)。これを読んだ皆様の内側でスプラトゥーンひいてはゲーム全般との関わり方に何かポジティブな変化が起きたならば、筆者として嬉しさこの上ないです。僕は『あいだ』を読んでゲームとの関わり方が一新されました。スプラトゥーンをプレイする時に主体自己の成立の契機が存在すると論理的に確信してしまった僕は、これからはゲームは何も生まないみたいな言説は全て跳ね除けて『スプラトゥーン3』の世界をこれまで以上に楽しませていただきますことを、ここに誓います。
ほな カイサン!!!